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aronwan77’s diary

金魚と熱帯魚の飼育、高齢者介護

介護者の罪悪感

高齢者介護

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認知症が進んでしまった人でも、そうでない人でも、施設にいる多くのご老人は強い帰宅願望を持っている。自宅にいても「家に帰りたい」と誤認している人は除くとして、昼飯の内容を忘れてしまっているご老人でも、家族が会うたびに「いったい何時になったら家に帰れるの? わたしを姨捨山に捨てたのか?」と悲しい目で訴るのだ。

親を捨てる。施設に預ける家族は、この言葉に苛まれる。特にまだら呆けと言われる状態の認知症患者の訴えは、どこまで本気なのか病気なのか分からず家族は悩む。認知症患者は短期記憶が侵されるとあるが、帰宅願望や見捨てられ感は、記憶ではなく感情の領域にあるのだ。故郷に帰れない=自宅に帰れない、そういった根源的な失望や悲しさは雪のように心に降り積もるのか。喜怒哀楽は論理的なものではなく脳の奥底に住み着くものなのか。理由や関連付けはないものの、とにかく悲しい。悲しいというのは不安の表れであり、自分の居所ではないという不安感が悲しみエピソードとして創出させるのかもしれない。

認知症患者は、自分が元気そのものだとも訴えする。家に帰ればお勝手をして、邪魔にならないように洗濯や掃除も手伝うと言うのだ。もちろん妄想の世界だが、本人はそう思っている。明日家に帰ってエプロンをしてハンバーグをこねる計画=夢を見ているのだ。元気なのに家に帰れない。その葛藤が時として鎌首を持ち上げる。家族の顔を見れば、正にそれがきっかけだ。真摯に帰宅願望を訴える親の顔を見て、家族はその真偽が分からない。いや真偽なんてないのだ。その瞬間、瞬間は本当の気持ちなのだ。しかし、困ったことに家族に会っても帰宅させてくれない現実を言い聞かされて、その悲しさだけが降り積もっていくのだ。

認知症のご老人は本当のことしか言わず、家族は嘘ばかりついている。これが真相だ。施設の職員は、その都度誤魔化せばいいとか、親の姿を見るのが辛ければ来なくていいんです、と言う。これが罪悪感なのだ。親のことより、自分の生活を優先すべし、と判を押したような論調ばかりだ。自分を大切にすることを優先して、老い先短い実の親に嘘ばかりついて家から追い出しているのが実情だ。だから、家族の抱える罪悪感は尽きないのだ。施設の職員には見透かされているのではないかと—。「これで良かったんだ。子供が倒れたらお婆ちゃんが一番悲しいはずさ」と言い聞かせている時、自分はそんなに有意義な暮らしをしているのかと―。自問自答の毎日だ。

※掲載絵はエドワード・ホッパー